斉藤鉄夫氏は政治家として公明党に所属をしている衆議院議員です。
科学技術政務次官、衆議院文部科学委員長、公明党政務調査会長、環境大臣、公明党幹事長代行、公明党副大臣として幅広く活躍しています。
そんな彼について知りたいと思う人は少なくありません。
今回は、
についてまとめてみます。
斉藤鉄夫の若い頃は清水建設の研究員!

斉藤鉄夫氏は清水建設で働いていたと言われています。
一体どのような仕事ぶりだったのでしょうか。
ここでは、彼の現在のキャリアを築いた若い頃についてまとめてみます。
若い頃は清水建設の研究員
斉藤鉄夫氏は東京工業大学大学院修了後、清水建設技術研究所に研究員として就職し、超音波や物理分野の技術者として活躍しました。
その頃に博士号取得後、超高層ビルの非破壊検査技術の研究で一定の成果をあげた斉藤は、次のステップとして宇宙物理など物理学の異分野にも挑戦したい思いが強まっていました。
そこで「アメリカでこの分野について勉強したい」と明確に希望したところ、会社に積極的に後押しされたため実現しました。
彼はその時のアメリカ・プリンストン大学プラズマ物理学研究所への留学経験をきっかけに、日本の科学技術政策の遅れと危機感を強く抱きます。
何もかもがアメリカと日本では技術力が違ったのでしょう。
とても強い衝撃を受けたのではないでしょうか。
そんな折、当時の公明党参議院議員・塩出啓典がプリンストン大学を視察に訪れた際には機会があり交流することができました。
塩出氏から研究者としての経験や視点を買われ、塩出議員が国会議員を引退する際に後継者として指名されたことが政治家転身の直接の契機となりました。
斉藤鉄夫の若い頃は研究経験が政治家へキャリアチェンジ

斉藤鉄夫氏は、塩出議員氏の後継者として政治家としての道を歩み始めます。
研究経験が政治家にキャリアチェンジ?
彼の政治家へのキャリアチェンジには、アメリカ・リンストン大学での塩出啓典氏との交流がありました。
彼は、プリンストン大学で塩出議員と交流後帰国し、年齢的にも40歳を過ぎており研究者としての限界を感じていたことから、社会に貢献する手段として政治の道に進む決意をしました。
1993年に旧広島1区から初出馬で当選したことは、多くの市民の支持があったからと考えられます。
政治家としては今までに、科学技術政務次官、環境大臣、国土交通大臣、公明党代表など多くの要職を歴任しています。
若い頃の斉藤は「研究熱心な理系技術者」で、プリンストンで得たグローバルな視点と、自身の体験を活かして日本の科学技術政策や社会課題に取り組む政治家として歩みを始めていたことは見てわかります。
どこまでも前進し、日本をより良いものにしたいと思う気持ちが、彼の歩みを止めることをしませんでした。
まとめ
今回は、
についてまとめてみました。
斉藤鉄夫氏は清水建設の研究所で、研究員として活躍をしていました。
彼はとても勤勉で、自身の技術を高めたいという気持ちからアメリカへの留学を決めました。
しかし、そこでアメリカと日本の技術の差に驚かされたようです。
その中で政治家への道は、塩出議員と出会い、研究者としての限界を感じ、研究成果を社会に広く活かし、国民生活の安心や科学技術立国の実現を目指すために政治家としての道を歩み始めたことにありました。
今後彼がどのような政治活動をしていくのか注目していきましょう。