田原総一朗氏は、2025年で91歳を迎えており現在もなおジャーナリストや評論家としてメディアに出演をして活動をしています。
彼は、時々過激な発言で問題になり注目を集めています。
そんな彼はどのような人なのかとプライベートについて関心を持つ人は多くいます。
今回は、田原総一朗氏の
についてまとめてみます。
田原総一朗の若い頃は苦学生?

田原総一朗氏の若い頃は、家庭の経済的事情から昼間は働き、夜に早稲田大学第二文学部(夜学)に通う苦学生でした。
どんな生活をしていたのでしょうか。
若い頃は苦学生だった?
1934年滋賀県彦根市の商家の長男に生まれましたが、父親の仕事の失敗などで家計は困窮し、高校時代から家庭教師などのアルバイトで家計を支えていました。
高校卒業後、作家を目指して上京し、日本交通公社(現JTB)に就職。
昼は勤務し、夜は早稲田大学夜間部に通いながら勉強を続けました。
就職をした日本交通公社の配属先は、東京駅前の丸ビル案内所でした。
切符や周遊券を売る業務を担当しましたが、入社早々ミスを連発します。
特急の列車番号を誤って記入し、ダブルブッキングのクレームが発生したこともありました。
田原氏は鉄道路線に詳しくなく、顧客対応で駅名を間違えるたびに先輩から馬鹿にされ、出勤が嫌になり、仮病を使って休んだこともあったと語っています。
あまりのミス続きのため、定期券売り場に異動。
しかし、そこで誤って不正利用可能な定期券を受け取るトラブルが発生し、再度別部署に異動となります。
異動先は「使えない社員のたまり場」と呼ばれる部署で、田原氏自身もこの時期を「落伍者としての屈辱的な時間」とインタビューで振り返っていました。
また在学中、文学賞への応募や同人誌活動を試みましたが、石原慎太郎や大江健三郎の作品に触れ、自分には文才がないと痛感し作家の道は断念しました。
作家志望からジャーナリストへ志望を変え、約3年間ほとんど通わなかった第二文学部を辞め、実質的にはジャーナリズムの学びに進路を切り替えました。
田原氏は若い頃、経済的困窮の中で昼は働き、夜は学ぶという生活を送り、強い意志で自己実現を模索した苦学生であったことがわかります。
社会人としても第一歩で大きくつまずきましたが、この挫折が彼の反骨精神と批判的思考を形成する重要な基点となり、後のジャーナリストへの考え方につながっていったと考えられます。
田原総一朗の若い頃幼少期は虚弱体質もやんちゃな性格だった

田原総一朗、滋賀県彦根市で育ち、幼少期は体が弱く肺炎を何度も患うなど病弱でしたが、やがて元気に成長しました。
生い立ち
1934年4月15日に賀県彦根市の商家に生まれました。
当時実家は生糸商を営む家でしたが、戦後家業は製網業へと変わったようです。
田原氏は幼少期、非常に病弱な子どもで、何度も肺炎を患い「死にかけたこともあった」と語っています。
胸に湿布を貼ったまま幼稚園に通っていた時期もあったようです。
当時は奉公に来ていた丁稚(でっち)に送り迎えをしてもらうことが多く、一人で外出させてもらえないほど体が弱かったそうです。
病弱な時期には家で過ごすことも多く、絵本や物語に没頭し、自分で「忠臣蔵」や「神話」の絵物語を描くなど、幼い頃から表現への関心が強かったといいます。
しかし、3歳から近所の人たちを遊ぶようになり次第に体力がつき、いじめられっ子からやんちゃ坊主として活発に振る舞うようになっていきました。
幼稚園では「五人組」と呼ばれるいたずら好きなグループの一員だったとも言われています。
こうした豊かな感受性や観察力は、後年ジャーナリストとしての鋭い洞察力へとつながったといわれています。
戦時中は海軍兵学校に入学し、特攻隊員になる夢を持つなど、典型的な軍国少年でしたが、敗戦で価値観が大きく覆され「偉い人の言うことを信用しない」考えを持つようになっていきました。
幼少期には病弱ながらも、必死に強く周りに負けまいとして成長していく姿が感じられるエピソードでした。
まとめ
今回は、田原総一朗氏の
についてまとめてみました。
田原総一朗氏の若い頃は苦難に満ち溢れていました。
幼少期には何度も肺炎で死にかけ、それでも立ちあがりやんちゃで活発に成長を遂げました。
彼の困難はここで終わることはなく、父親の仕事の失敗で経済的にも困窮した日々が続きました。
そのため、苦学生として働きながら夜間学校へと通っていました。
文学が好きで同人活動にも手を出しますが、才能の前に自信を無くしてしまい作家への活動を断念。
しかし、その中で彼は適職とも言えるジャーナリストへの道を目指すことになったようです。